八重垣

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八重垣の歴史

産業革命

清酒業界の産業革命。そして、ヤヱガキの躍進。

それまではせいぜい精米機ぐらいしか導入されていなかった全国の酒蔵が、「合理化」を合言葉にさまざまな改革を模索しはじめたのである。

 

長谷川合資会社で大改革が実行

昭和35年、槽場(ふなば)を改造、洗 瓶機が導入、蒸米を運ぶのが人力からベルトコンベヤーに。仕込み桶が、木桶から大型ホーロータンクに。2階マンホールからの仕込み・蔵人の8時間労働制・ 女性蔵人の採用など、酒造組合でもニュースとなる画期的な改革が相次いで行われ同業関係者の見学者も殺到した。

後に外販される長谷川式醸造機械も、どんどん発明されていった。社員も、トラックも増え続けていった。

 

新製品の開発が盛んとなり、ヤヱガキ酒造株式が誕生

30年:原料アルコール・清涼飲料、35年:リキュール・梅酒、36年:合成清酒、37年:味醂・本直しの生産や販売が始まる。酒造りが行われない夏の仕事をつくるためであり、それにより焼酎の蒸留塔などの設備もさらに充実していった。

販売は直取引のみで、販路は西播磨地区、山陽地区へとひろがっていった。当時の激しい競争のなか、1ケース(10本入)に2本付、2.5本付などの特典や旅行招待などのサービスをかかげ、トラックは各地を走ったのである。
36年には姫路以西に向けて、女優浪花千栄子氏主演のテレビCMを放映。「ええお酒は、ヤヱガキに限りまっせ」のメッセージが流れた。このころ東京市場への進出と、卸店を通じての販売のきっかけができる。

37年6月、長谷川定夫、永眠。69歳。
30年頃より勘三に経営権をゆだね、以後は会社の近代化を静かに見守り続けていた定夫の死により、勘三は長谷川合資会社の文字通り代表者となる。
そして同年12月、ヤヱガキ酒造株式会社を登記。翌38年4月、長谷川合資会社を合併し社名を変更。社訓「強く、正しく、美しく」が制定された。この頃社員数は50名をこえている。

新制ヤヱガキの成長

勘三が自社用に発明した数々の長 谷川式醸造機械は、昭和40年代に入ってからも業界の注目を集め、各社からの販売依頼の殺到や、経営コンサルタントのアドバイスなどによって外販を決定。 40年4月には、ヤヱガキ酒造(株)に機械事業部を設立。経済成長を続ける社会状況にあって、41年12月には1ヶ月だけで販売1,016石を果たした。 これは現在でも破られていない、ヤヱガキ史上一位の成績である。

ヤヱ ガキ醸造機械(株)は、45年、営業方針を一変する。ヤヱガキ酒造(株)より社員を移籍させ、酒造りのプロによって、機械の据え付けからアフターケアまで サービスを徹底化させるのだ。これによって社員は休日返上で日本全国を駆けめぐることになるが、業績は更に急上昇した。

純粋日本酒協会を昭和48年につくった長谷川勘三は、全国醸造清酒協会を50年に発足。勘三はこの後、日本酒、それも大手メーカーが造るものではなく各地の酒造家が真摯に造る酒、「地酒」のPRにつとめる。

清酒 や焼酎、アルコール、合成清酒の酒造組合などの役職を歴任してきた勘三は、昭和55年5月、新たに日本蒸留酒造組合副理事長に就任。そして同年11月3 日、長谷川合資会社以来の酒造りと業界の団体での多くの活躍、いいかえれば「多年酒造業に携り品質向上に努め関係団体の指導にあたり業界発展に寄与した」 ことのより、国から表彰され、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受け賜る。さらに58年11月には大蔵大臣表彰も受けている。

50年代後半、ヤヱガキ酒造 (株)に、もうひとつの朗報が東京の居酒屋から届く。チューハイブーム。低迷していた焼酎需要をいっきに伸ばした現象である。純米焼酎「甲(かぶと)」の ブランドと新しい飲み方提案PRを、姫路中心にこつこつと続けてきたスタッフへの、なによりのニュースだった。52年販売当初は数えられるくらいしか売れ なかった「甲」は、この後、ヤヱガキの一大ブランドに成長していくのだ。

「甲」は、 甲類焼酎であるがサラリとした味わいの中に、ほのかな原料の香りを残している。勘三は、本格焼酎でもそんなタイプをつくろうと酒造の研究者たちと検討して いた。パンや乳酸飲料など様々な原料を使い、新しい本格焼酎の試験醸造を行った。新しい蒸留機を導入したり、研究員を九州の焼酎メーカーでの研修に参加さ せたりした。そして、59年には大麦を原料とする本格焼酎「あらき」が誕生したのだ。「あらき」もまた、人気商品の一つとなっていく。

深い技術力と商品に対するこだわり、社員の熱意の結晶がヤヱガキの成長を飛躍させた。 それは、21世紀となった今も変わらない。