八重垣

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八重垣

八重垣の歴史

林田藩に興る

因幡街道沿いの一軒の酒屋。屋号は材木屋。
酒銘は「生諸白(きもろはく)」。

長谷川家が酒造りをはじめたのは、近世前期の寛文6年(1666年)。屋号はもうひとつの家業から、「材木屋」とした。

天保10年(1839年)、酒銘を「生諸白(きもろはく)」及び「枩の花(まつのはな)」と名付け、地頭から酒株を受領している。当時の年間醸造高は、200石余り。近郷の米を使って、近郷の人々に売られていた。長谷川家の酒は「生諸白(注1)」という酒銘から、清酒であったと思われる。

江戸時代、元禄期(1688~1703)に酒造業は大きな発展をとげる。要因は江戸の繁栄であった。人口100万。江戸は、幕府が開かれて以来、一大消費都市となったのである。

江戸では酒の消費量も莫大なものだった。かつて江戸の武士が飲んでいたのは、どぶろくに近い濁った酒である。そこへ上方の澄んだ酒、諸白が登場するや大人気となり、江戸へ運ぶ酒の量はみるみるうちに急増していった。

これが上方の酒造界の発展の要因となったのだ。なかでも伊丹と池田は諸白造りで名をあげ、大きな財を成した。

(注1)
諸白とは当時、澄んだ酒(清酒)を意味した。また諸白はそれまでの酒とは異なり、掛米・麹米とともに精米した米を使う贅沢な酒であり、元禄8年(1695 年)刊の『本朝食鑑』にも美酒の代名詞と記されている。その製法はまずもとを造り、それに仕込み水、米麹、蒸米を3回に分けて加える3段掛け法が基本と なっている。また、火入れによる腐敗防止、杉を使った大桶による大型仕込み法など、現在の清酒造りにつながる醸造技術も江戸時代に向上していった。

酒の歴史

長谷川家が酒造りをはじめるに至るまでに、酒造りはいかなる歴史をたどってきたのだろう。播磨風土記にあるように、酒は神と人を仲立ちするものとして神事に供されていたと考えられる。

宗教儀礼としての酒造りは、10世紀に編纂された「延喜式(えんぎしき)」に記されている。「延喜式」は、律令体制下の朝廷で行なわれていた年中儀式について書かれた事務規定で、宮廷の祭事儀式において、酒が欠かせない飲み物であったことがわかる。

商売としての酒造りは、平安末期から鎌倉・室町時代にかけて盛んになる。荘園体制の下、幕府や社寺の権力者から酒造りの権利を得た特定の業者が、酒造販売を行なったのだ。
また、神社や寺院など僧坊が、荘園からの貢納米で酒を造り販売した「僧坊の酒」も盛んであった。

酒造業はだんだんと地方にひろがっていき、室町時代には京都の酒以外は総じて「田舎酒」と呼ばれるようになった。 清酒の発展の萌芽はこの田舎酒に見られる。

近世、酒屋の多くは僧坊や交通の要所に生まれている。江戸時代、長谷川家が酒屋をはじめた林田も、因幡街道筋にある交通の要衝であった。

酒造りは江戸幕府の経済の根幹を担う米を使うため、厳しい統制も受ける。明暦3年(1657年)には酒造株が設定され、株を持つもののみが酒造りを許可されるようになった。

長谷川家の興隆

長谷川家において、酒屋をはじめた栄雅は、自分亡き後の長谷川家の興隆を心から祈って、亡くなる1年前の元禄3年(1690年)正月に以下のような内容の遺言状を子孫に残している。

一、神仏の御恩一日も忘るべからず事。
一、天道の御冥見恐るべき事。
一、御上様御制禁かたく相守り申すべき事。
一、御治政静謐の難有事悦ぶべき事。
一、先祖のご恩を賞め思い出すべき事。
一、家業専一に相働き昼夜油断之無き事。
一、高下を見越し商売は一切間補の事。
一、自身倹約を守り家内和合に致し渡世致すべき事。
一、惣じて家督身代の向 我が物にあらず 先祖より之れ預かり物に候へば不減様に致し 次の相続人に相渡し隠居の時 目出度預り役柄退役と思うべき事 然らば我が役中 増益あるを目出度しと存ずべき候の事。 (内容抜粋)

栄雅が亡くなった後、長谷川家は林田の里を中心に商いを展開する、いわば郷土の造り酒屋として繁栄していった。 栄兼、栄仁、栄寿を経て、嘉永2年(1849年)には、材木業と酒造業を分業。 兄栄忠は材木業を、弟栄郡は酒造業をそれぞれ継いだ。

栄郡の代には醸造高も次第に増加し、日の出の勢いをあらわす「曙(あけぼの)」という酒銘を誕生させている。神仏に感謝し、先祖を大切にするとともに、商いに真剣に励むようにと願う、子孫へのメッセージ。

これを受け継いだ長谷川家は、林田の豪家として名を馳せていったのだ。