八重垣

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八重垣

八重垣の歴史

林田藩と八重垣

蔵の環境と風土

瀬戸内性の豊かな自然と、安定した気候に恵まれた播州平野は関西屈指の穀倉地帯。酒造りに欠かせない酒造り好適米「山田錦」の産地として名高い所である。ふくよかな自然に抱かれて、山あいから一筋の水は清らかな川となって流れてくる。

その 林田川上流沿いに、白壁・黒板の姿で八重垣の大蔵・中蔵・北蔵・東蔵が並んでいる。当地方の酒造りの歴史は、神代の時代より受け継がれたものであり、更に 播磨風土記によれば応神天皇の御柾行の砌、当地方に御駐輦され意比川(今の林田川)の辺りに酒屋・酒殿を設けられた。とあることなどから、この林田の里 は、古く神代の時代から酒造りが盛んであったことが偲ばれる。

ヤヱガキの祖

八重垣の歴史は、美しい自然と神話に彩られた播州林田ではじまった。林田の起源は古く、10数世紀以上前に拓けており、江戸時代には建部氏1万石の城下町として繁栄した地方文化の小さな中心地でもあった。

ヤヱガキの祖である長谷川家は、伝来の家系図によれば藤原氏の一族であり、大和の国から林田に移り住んだ。そして江戸時代、藤原鎌足33代目の子孫、長谷川栄雅が、寛文6年(1666年)、酒屋と材木商を開く。歴史は、ここにはじまった。


長谷川家家系図

林田藩政と八重垣

その林田藩とは一体どのような藩だったのか。歴史を紐解くと、元和3年(1617年)に藩主を建部政長として立藩したことから始まる。

建部 家は宇多源氏の流れをくむ佐々木氏より出、近江国神崎郡建部村に居住して建部家を名乗った。建部政長は大阪冬・夏の両陣で功をあげ、徳川家康より元和元年 に摂津国河辺郡において1万石を与えられる。建部家はこのとき、はじめて大名となり、翌々年、播磨国揖東郡林田に封地を移し藩を開いた。

林田藩は、林田の聖ケ岡に城を構え、藩内約1万2,000人の人々を治めた。農業をはじめ、宿場町として商業が発達し、特産物の林田瓜と林田焼は名高く、将軍家へ献上されていた。

歴代の藩主には、さまざまな業績を上げた人物がいる。(※下図参照
初代政長の業績で特筆すべきは、灌漑用に鴨池(西池)を築造したことである。林田は、いまもその恩恵を受けている。7代政賢、8代政醇、9代政和と続いて学問を奨励し、学術の振興に寄与した。 この藩政の下で、俳諧の三木雨人、また八重垣とも縁の深い漢詩の河野鉄兜(こうのてっとう)など多くの文人・学者を輩出。教育が充実し、文化が発展したのも林田藩のひとつの特長といえよう。

藩祖以来、徳川家の恩顧を受け大いに繁栄した林田藩は明治2年に大政奉還となるまで、250年にわたって林田を治めたのである。

建部家歴代藩主の紹介

政長 大阪夏の陣で武功をたて、川辺郡で1万石。元和3年(1617)9月林田へ、西池(鴨池)を構築
政明
政宇(まさいえ) 政明の弟、鴨池のほとりに西御殿を造営、石灯ろうを八幡、祝田(はふりだ)神社へ寄進
政周(まさちか)
政民
長教(ながのり) 済水寺にある「寛量院殿茶所の塔」は彼のもの
政賢(まさかた) 石灯籠を、八幡、祝田両社へ寄進、敬業館を開設、長教の弟
政醇(まさあつ) 石灯籠を、八幡、祝田両社へ寄進
政和(まさかず) 河野鉄兜(こうのてっとう)を敬業館教授に迎える
政世 最後の藩主、明治2年林田藩知事