八重垣

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八重垣の歴史

ヤヱガキの礎

激動の時代、酒造高は90%も落ち込む。

昭和初期は、大正末期の金融恐 慌、続く関東大震災の後遺症をひきずり、全国的に経済状況が大変不安な時期であった。酒造業も大打撃を被り、市場は低調を極め、不況に強い低価格の焼酎や ビールなど清酒にかわる酒類の台頭も、一層の追い打ちをかける。大手酒造会社は豊かな資金力にものをいわせ、この苦境をきりぬけた。中小酒造会社の経営難 によって、市場における独占力をさらに増していったのだ。

日中事変の勃発により、13年から清酒の生産統制がはじまり、長谷川合資会社も減石を余儀なくされていった。大正期の1,800石から1,300石の減少。太平洋戦争の激化にともない戦争末期には200石まで減少した。 19年、酒造高がすっかり落ち込んだ長谷川合資会社に長谷川勘三は帰ってきた。

「ないものは自分でつくる」長谷川勘三の覇業

勘三は、大阪帝国大学工学部醸造学科を卒業後、同大学の助手のまま軍から命じられた航空燃料用アルコールの製造に着手。原料は与えられたが、製造設備は自らがつくらなければならず、材料 調達は困難を極めた。「ないものは、自分でつくる」酒樽を40段積み重ね、自宅の銅の桶や看板を外して使い連続蒸留機をつくり上げた。苦心の末にでき上 がったこの機器によって、94度のアルコールをつくることができたのだ。

20年に入ると兵庫県においても空襲が本格化。酒造地帯も壊滅的な被害にあう、そして終戦。 9月、勘三は大学を辞任し長谷川合資会社に入社。進駐軍に徴集されないよう隠していた日本軍支給の高粱(こうりゃん)で、10人足らずの社員とともに焼酎製造をはじめ、翌年8月代表のひとりに就任。

焼酎 の研究をしていた勘三は、21年にパン用イーストと飴、パン焼き器を開発。イーストは、焼酎原料と払い下げの爆雷を改造した設備からつくった。長谷川家に 隣接する和菓子店千古堂の千古勉氏や近隣の住民の協力を得て、一般家庭やパン製造会社へ販売する事業が23年頃まで続いた。

焼酎 原料は、高粱から、甘藷(かんしょ)・切干甘藷(きりぼしかんしょ)中心に変わっていった。設備は、勘三の発想で次第に近代化されていく。焼酎は当初硫酸 を使って糖化していたが、23年頃より麹による糖化に成功、生産効率を上げた。27年には貫一升(甘藷3.75kgで焼酎1.8Lをつくる)の目標が達 成。後に清酒と並ぶ代表商品となる、焼酎の草創期だった。

後に社の中枢を占める若者たち

20年代の長谷川合資会社は、定夫を旦 那さん、勘三を若さんと呼ぶ昔ながらの酒屋の面影を残す会社だった。正社員もようやく10名をこえた。しかし、わずかな新入社員のなかに化学系の人間が多 かったことが、新しい伝統を育むこととなる。長谷川勘三を中心として、後に社の中枢を占める当時の若者たちが、技術のヤヱガキ・開発のヤヱガキの礎を築いていくのである。